2006年6月9日金曜日

「農耕民族」と「日本人」は、同義語であるか?



何でこんなことを考えてしまったかというと、さくら様の文章の中でこんな言葉を目にしたから:
さくらの永田町通信: くじらと外交: "基本的に農林族は、農耕民族・日本人の水と緑を守る愛国者ですから"
彼女の論点から離れてしまうのだが、「農耕民族・日本人」という表現が気になった。この表現は当たっているとも言えるし、当たっていないとも言える。

いろいろ考察が可能だが、むつかしい議論はやめっ。もっと具体的で面白い例を。今朝こんな爆笑ニュースを読んだ:
雅楽多blog:性教育の手引書で、「当時の日本人の8割以上を占める農民層では14〜15歳になるとセックスも含めてつきあいを始めるのが普通で、いろんな人とつきあってからだんだん相手を決めていった」が問題に - livedoor Blog(ブログ): "解説を読んだ一部の関係者から「『セックスも含めてつきあい始めるのが普通』という表現は問題」との声が上がり、県教委が再検討。"

こ の問題は別に新しい問題ではない。明治政府も農民大衆の性風俗に当惑し、何とか「国際的に恥ずかしくないようなレベル」にまで「改善」させようと躍起に なった。禁欲的なサムライ階級にとっては、農民の性の奔放さは苦々しい「旧態依然たる因習」であったし、自分たちの価値観とは異なったものであったから だ。

ところがなかなか改まらない。農村部の旧習を告発するサイトで は、いまだにこういう農村特有の性のルーズさのおかげで女性が被害に遭うという例が多く報告されているし、都市部でも電車での痴漢は後を絶たない(あれは 国際的には珍しい現象。都市部にも農村出身者が多いのだ)。フリーセックスは北欧とかアメリカが先だと言うが、文化的な意味合いがまるで違う。あちらでは 「古い社会制度への抵抗」として出現したものだが、日本に於いては「伝統的文化」として残っているのである。

「農耕民族(農民)=日本人」というなら、「夜這い文化こそが日本の美しい伝統」と言うべきだが、さすがに誰もそこまでは言わない。それどころか、藤原正彦は『国家の品格』でサムライ精神こそが日本の骨格であると断言(ということは彼は日本の農村文化を否定しているのである。サムライ文化は農民文化と違う)。

どっ ちがいいとかの議論はしないが、言いたいことは、時には伝統文化であると開き直り、時には恥ずかしいものだして隠す行動に出るという「日本の伝統」は興味 深いと言うこと。このへんのアンビバレントな感覚が、現在の日本社会に蔓延する、ある種の屈折したご都合主義と、エゴ丸出しの実利主義に結びついていくの かも知れない。その意味では「農耕民族=日本人」とも言えるのだが、なんだかやりきれない。

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